第5章 水の仕事との出会い

少年のころ、私はただ海を眺めていた。
釣り竿を握り、
波の音を聞きながら、
広い水の世界を見ていた。
しかしそのときの私は、
まだ知らなかった。
この「水」が、
やがて自分の人生の仕事になることを。
中学校に入ると、
試験の成績は順位で廊下に張り出された。
全校三百人ほどの中で、
私の順位はいつも百五十番あたり。
ちょうど真ん中だった。
理科はよくできた。
しかし英語はまったく駄目だった。
単語を覚えることがどうしても苦手で、
試験ではほとんど点が取れなかった。
成績は極端だった。
得意な科目はよくできるが、
苦手な科目はまるで駄目。
小学校の通知表も、
「1」と「5」が並ぶような
不思議な成績だった。
父はいない。
母子家庭だった。
だから私は、
公立の工業高校を目指した。
そして運よく
合格することができた。
理科の授業で、
今でも覚えている出来事がある。
先生がクラスに質問をした。
「希硫酸で紙や布に字を書くと、
最初は何も起きない。
しかししばらくすると
黒い文字が浮かび上がる。
これはなぜだ?」
教室は静まり返った。
誰も答えられない。
私はすぐに手を挙げた。
「希硫酸の水分が蒸発して、
濃硫酸になるからです」
先生は少し驚いた顔をして
うなずいた。
「その通りだ」
そのとき私は、
ただ理屈が分かっただけだった。
しかし今振り返ると、
この「気化」という現象は
後に私が取り組む
技術の重要な要素になっていく。
人生とは不思議なものだ。
未来の種は、
ずっと前に蒔かれていることがある。
高校を卒業すると、
私は大阪の会社に就職した。
医薬品で有名な大企業の
関連会社だった。
そこには夜間大学に通える制度があり、
会社の中には
専門学校のような教育機関もあった。
私はそこで働きながら
勉強を続けるつもりだった。
しかし入社してすぐ、
不思議なことが起きた。
私は現場ではなく、
研究所に付属する
特殊技術部門に配属されたのだ。
そこで扱っていたのは
純粋な物質の分離精製だった。
再結晶。
蒸留。
単離。
クロマトグラフィー。
物質を分け、
純粋なものを取り出す技術。
そのときはただの仕事だった。
だが後に私は知る。
水処理という技術もまた、
本質は「分離精製」だということを。
この経験は
後の人生で
大きな意味を持つことになる。
寮生活でも、
少し不思議な出来事があった。
会社の男子寮には
研究所の博士課程を出たような
優秀な人たちも住んでいた。
あるとき
寮長の選挙が行われた。
普通なら
一番年長の優秀な人が
なるはずだった。
しかしその人が突然言った。
「木村君は前向きでやる気がある。
彼にやってもらおう」
気がつくと
私は寮長に選ばれていた。
あとで考えれば
その人は面倒な役を
避けたかっただけかもしれない。
それでも
この出来事で
会社の中で
私の名前が少し知られるようになった。
その会社は
長い歴史を持つ大企業グループだった。
当時の日本では
労働組合の活動も活発だった。
組合の中心には
共産党の影響を受けた人たちもいた。
私は政治思想とは
あまり関係のない人間だった。
しかしなぜか
その人たちに気に入られ、
ある日突然
組合の書記長のような役に
選ばれてしまった。
それによって
会社の上司との関係が
少し微妙になっていった。
居心地が
少しずつ悪くなっていった。
そのころだった。
私は
キリスト教と出会う。
共産主義とは
まったく違う世界。
祈りと信仰の世界だった。
そして私は一時期、
神父になることを
真剣に考えるようになった。
そのころの私は
恋も多かった。
かわいい女性を見ると
勇気を出して誘ってみた。
デートに成功することもあった。
しかし、
いざ二人きりになると
何を話せばいいのか分からない。
沈黙が続き、
すぐに振られてしまう。
そんなことが
何度もあった。
女性と普通に話せるようになるまで、
私はかなり時間がかかった。
やがて私は
会社を辞め、
地元へ戻ることになる。
神父になる道も考えたが、
現実には少し難しかった。
そこで私は
社会福祉の道を目指そうと考え、
上智大学の
社会福祉系専門学校を
受験することを決めた。
その準備をしながら
地元の会社で働き始めた。
繊維系の会社だった。
社員は二百人ほど。
そこで私は
製品を水で洗う工程の
責任者を任される。
そして同時に
排水処理の担当にもなった。
ここで
再び「水」の仕事に
出会うことになる。
会社には労働組合もあり、
私は何度か委員長も務めた。
そしてそのころ、
人生の大きな出会いもあった。
妻との出会いだった。
やがて私たちは
結婚する。
生活を守るためにも
もっと安定した仕事が必要だった。
私はある資格に挑戦する。
公害防止管理者
当時は
非常に難しい資格だった。
一年かけて
必死に勉強した。
そして
ついに合格する。
この資格が
後に私を
水処理メーカーの世界
へ導く
大きな扉になる。
少年のころ
海を見ていたあの時間。
あのとき
ただ好きだった「水」が
静かに
私の人生を導き始めていた。



